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旅の空の下で

4.霊峰 石鎚山
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 1991年の夏、奈良、和歌山から四国を旅した。
丁度1月程の旅だったが、夏休みの短い長野では、
10日程オーバーしてしまったが、
子供達は大喜びだった。

 当時の私はまだ絵を書く以前で、
テント屋を、細々と営んでいた。
夏休みが近づいたある日、子供達から、

 「お父さん、そろそろ旅に出ないの?」

と質問された。
沖縄を旅してから、すでに5年程が過ぎ、
そろそろ何処かへ、行きたい気分でもあった。

 「よし!それではテント屋の宣伝も兼ねて、旅に出よう!」

と、すぐに決まってしまった。

 小学校の夏休みが始まると、すぐに出発し、
奈良の大仏を見た後、
十津川峡を抜けて和歌山へ、那智勝浦からは、
フェリーで四国の高知へ渡った。
 高知では色々な出会いがあったり、色々な所を訪ねた。
最後に、四万十川から、四国カルストを抜けて、
石鎚山を登る事にした。

 美しい渓谷を抜けて、
七合目にある“石鎚神社”迄ひたすら登る。
 夕刻お宮に到着した。
メインの駐車場は避けて次の駐車場へ行って見た。
こちらはとても広く一番外れに陣取る。
 私達以外には2台の車が水場の近くにあるばかりである。
15分ほどかけてテントを建てる。

 この天幕は、アジア全般で使われている物で、
中国ではパオ(包)、
モンゴルではゲル、ロシアではカビッカ、
世界的にはこれはトルコ語だが、
“ユルタ”もしくは“ヤート”と呼ばれている。
 私の天幕は形状的には、カザフやキルギスのタイプに近い
柱の無いドームである。
世界最高所(標高4500m位)迄天幕で生活する
キルギスでは、この天幕を“オクイ”という。
このオクイに敬意を表して、
私の天幕は“奥居”オクイという名で販売していた。
 自家用で使っているこの天幕は販売している物より小さいが、
6畳程あるので、家族で使う分には十分である

 天幕も建て終わり、米を研ぎに水場へ行く。
2台の車の方々は、もう盛り上がっている様である。
 私がそばを通り掛かると、その皆さんに拍手されてしまった。
何が、出来るか、ジっと見ていた様だ。
天幕が出来上ったので、驚いている。
 考えて見れば、当時この天幕を、制作販売している人は、
私以外いなかった。
(現在も個人的に作った方はいる様だが、
生業としている方は聞いた事が無い)
加えて宣伝と称して旅しているのだが、
人ごみが嫌いな為、殆ど人のいない所で、
天幕を建てている為、和製ユルタ
を見た人は殆どいない筈である。
 話を聞くと、天幕に非常に興味のある方々で、
その後、私の天幕で宴会となった。
テント屋としては、こういう方がいると嬉しくなる。

 翌朝は、夜明け前に出発する。
気持ちの良い山道を、歩いていると、
少しづつ明るくなって来た。
そのうち突然、急斜面となり、長い鎖場が現れた。
 小一の次男は、手をスリむいている事もあり、
妻君と二人で、迂回路を登ってもらう。
小六の長男と二人で登り出した。

 鎖場は二段に別れており、どちらも50mを超える
大きな物だったと記憶する。
(個人的には日本で一番立派な鎖場ではないかと、
思っている。)

 二段目の鎖場を登り終えると、
視界が突然開けそこが頂上だった。
頂上で一息ついていると、息子と妻君も登って来た。


 頂上はオーバーハングの絶壁である。
祠が一つ建っているのだが、
そこへ白装束の修験道が三人鎖場を登って来た。
そして祠の前の絶壁から、登ったばかりの朝日に向かい、
唱え事を言い乍ら、一人がおもむろに、
ホラ貝を吹き始めた。
そして一人が錫杖を振り、一人は太鼓を打ち鳴らす。

 一面の雲海に突き出た絶壁の頂きで、
三人の修験道が虚空に向かい、
祈りを捧げているのである。ギャラリーは私達だけだった。
 何だかタイムスリップして、
違う時代へ来たのではないかと、思った。
石鎚山が宗教の山という事を実感した。

 私達は、幾つかある石鎚山のピークも登り
帰りは迂回路を、気持ち良く下った。

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